2015年11月6日金曜日

誕生死した息子のこと5(エコー写真)

D21 BT(Blastocyst transplant)1

ここから判定日(今回は都合で早めにしてBT9)まではホルモンを少し補充するだけでいつものことながら「神のみぞ知る」の世界です。

そんな時はついつい誕生日した息子の事を考えます。

昨日も移植から帰り、妊娠したときの治療日記を読み返していました。
そこにはたくさんのエコー写真があります。私が通っていた産科は大学病院のハイリスク科でした(当初は双子&高齢のため)通常は担当はいないのですが、なぜかよく当たり、後に担当となった先生はやたらと(笑)エコー写真をくれます。たぶん電子カルテにすべて記録されているのか、写真にしたものは全て渡されます。他の先生は1枚2枚だったり、ハサミで切られて1枚だけという時も・・・。

それが今となっては思い出の品になりました。

息子の頭がまさに子宮口をつついて、出たがっている写真も。
なんであんなに早く出たがったんだろう・・・。せっかちな息子です。

のちにいろいろな病気の事も解り、私の期待がふくらみすぎて、破裂したときの悲しみを大きくしないようにと、自ら早めに出ようと思ったのかしら、と思う事もあります。

後に、不妊治療で辛い時にお世話になった心理カウンセラーの人に、

「誕生死ですぐになくなってしまったお子さんの親御さんは、育てていない分、数ヶ月でも数年でも授乳したりおしめを替えた親御さん程に赤ちゃんの実感がもてず、自分が親であったことの感触がないのは当たり前です。」

と言われて、少しホットしたのを覚えています。

やはり私には親であった実感はありません。妊娠していた事実さえもウソのようです。
写真やエコー写真がなければ、いたのか、さえも不安になってしまいます。
そう思ってしまう自身が嫌で嫌で、冷たいと感じ、その事でさらに辛くて、情けなくて、罪悪感に襲われて、毎日泣いていました。(今でも同じ気持ちですが)
そう思う事をカウンセラーさんに「当たり前」と言われ、救われたのです。

もちろん、息子の事は今も愛おしくて仕方ないです。エコー写真をみてニヤニヤしてしまいます。かわいいですよ。たくさんのエコー写真は私の宝物で、息子そのものなんです。
そんな時間を得られているだけでも私は幸せなのだと思います。

でも、実感がないと思う自分を許してあげる気持ちも持たないと、と思うようになれました。

最後に入院中だったか・・・同じ様な症状のサイトをぐるぐる見ていた時にアメリカのサイトで見つけた言葉です。
「whatever happens, you are still a parent」

親としての実感はなくて当たり前、それでも私は息子の親だったことには変わりない。

つらくなると今はそう思うようにしています。

PS締切間近の仕事から現実逃避中〜(笑・泣)


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